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豆知識

兵馬俑は超リアル!?

兵馬俑は1974年、近くに住む農民が井戸を掘っている時に偶然見つけました。20世紀最大の考古学的な発見とも言われています。
教科書にも写真がありますね。兵馬俑は、秦の始皇帝の墓のまわりをとり囲むように配置されています。現在分かっているだけでも7000体を超える兵士、馬、戦車の陶器でできた像が埋まっていたのです。
兵馬俑の発掘現場は、そのまま体育館のような巨大な屋根がつけられていて、そのまま博物館になっています。土から顔が半分だけ出土した兵馬俑の様子を見ることができますよ。

この兵馬俑の兵士の像。一つとして同じ顔をしたものがありません。また、髪型、よろいの留め具、ベルトのバックル、さらには靴の裏の滑り止めの模様まで超リアルに再現されています。今ではすっかりあせてしまいましたが、当時は色が塗られていたことも分かっています。
また、兵士の大きさに注目すると、どれもこれも力士なみの180センチを超える大男たちです。
当時の中国人の平均的な身長とは考えられません。つまり、始皇帝は全国から大男たちを集め、自分の身辺を守る兵士としていたようです。それを実際の形にしたものが兵馬俑で、始皇帝は死後も自分を守ってくれるように、自分の墓の周りに配置したのかもしれません。


兵馬俑

なぜ、アメリカは『米国』?

アメリカのことを『米国』って言いますよね? なぜアメリカは『米国』なんでしょう?

実は、おそらく幕末、あるいは明治の初期にアメリカ人が自分の国の事を"America"と言うのを聞いた当時の日本人、『アメリカ』の『ア』がほとんど聞き取れず、『(ァ)メリカ』と聞き、それを漢字に当てはめ『米利堅(メリケン)』と表記したのが始まりです。

でも、『アメリカ』の『ア』は弱く発音しますので、当時の人は、正確に聞き取っていたとも言えますね。

ちなみに、イギリスは『吉利』なので『国』ですね。

そのほか、太利(イタリア)、阿陀(オランダ)、逸(ドイツ)、西亜(ロシア、欄西(フランス))は何となくわかりますね。

では、①伯剌西爾、②葡萄牙、③埃及、④土耳古 は読めますか?

「下らない」物って?

つまらない、取るに足らない物を「くだらない」っていいますよね。「くだら(下ら)ない」って何だろう?

鉄道で考えてみると、現在は東京方面が「上り」、大阪方面が「下り」ですが、江戸時代は「京(大阪)に上る」、「江戸に下る」と言ってました。今とは逆ですね。

当時、優れた文化の中心は何と言っても上方(京都、大阪)。優れた文物は、上方から江戸に「下って」来たもの。それに対して、江戸や江戸周辺の物は、あまり出来がよくない「下って来なかったもの」つまり、「下らないもの」だったのです。

そういえば、17世紀後半から花開いた元禄文化の中心は上方でしたね!

人形浄瑠璃

中華人民共和国の「中華」って何だ?

「中華」人民共和国や「中華」料理の「中華」は、「世界の中心」という意味です。「中国」も同じ意味です。

中国には大昔から「中華思想」という考え方がありました。中国は世界の中心、つまり「中華」であり、周りの国々は中国より文化的レベルの低い、野蛮な国であるという考え方です。孔子が儒教を説いたのが紀元前5世紀。日本はまだ縄文時代で、狩りをしたり木の実をとったり、という時代ですから、無理もないですね。

中国を中心に、北の異民族を「北狄(ほくてき)」、東は「東夷(とうい)」、西は「西戎(せいじゅう)」、南は「南蛮(なんばん)」と呼んでいました。

日本は中国の東にありますので、「東夷(とうい)」です。

後漢の時代に書かれた歴史書「後漢書(ごかんじょ)」の東夷伝の中に「光武帝が57年、倭の 奴国(なこく)の使者に金印を贈った」という記述があります。そして江戸時代に、福岡県の志 賀島(しかのしま:今は陸続き)で金印が発見されたという話はあまりに有名ですね。金印には「漢委(倭)奴国王」(かんのわのなのこくおう)とあります。 これは後漢の皇帝が、あなたは倭(日本)にある奴国の王であるということを認めたものです。

時代は下って、239年。邪馬台国の卑弥呼が魏に使いを送ったことが「魏志」の倭人伝の中に書かれています。ここには邪馬台国の様子や、邪馬台国への行き方が表されています。

余 談ですが、邪馬台国への行き方が、朝鮮半島にあった「帯方郡(たいほうぐん)」という場所からの距離と方位で表されています。ところがこの表記が非常にあ いまいなため、邪馬台国の位置がはっきりしません。北九州にあったという説と、大和(奈良)にあったという説があり、いまだに決着を見ていません。卑弥呼 の墓が発見されるなど、考古学的な発見を待つしかなさそうですね。

さてさて、話を元に戻しましょう。「中華」の話でしたね。奴国や邪馬台国の時代、日本には文字はありませんでした。ですから当然、当時の日本の様子を書いた書物は日本にはないわけですから、中国の歴史書の記述を見るしかないわけですね。

ここで、注目したいのは、倭、奴国、邪馬台国、卑弥呼などにある「倭」、「奴」、「邪」、「卑」などの漢字です。日本の国名や人名の発音を漢字に当てはめているわけですが、「倭」は「コビト」の意味、「奴」は「奴隷」の「奴」「邪」は「邪魔すんなよ!」の「邪」「卑」は「いやしい(身分が低い)」という意味です。つまり、ろくな意味の漢字じゃないってことです。

中国は世界の中心で、周りは文化水準の低い国なので、このように意味のよくない漢字を当てて表記したのですね。これが「中華思想」の一つの現れです。

「幸せの国」ブータン

ブータンという国をしっていますか?日本人にはあまりなじみのない国かもしれませんが、ブータン人のほとんどは、「西岡京治」という日本人を知っています。西岡京治は1964年ブータンにわたり、1992年に亡くなるまでブータンの農業指導に尽力(じんりょく)した人です。ブータン国王から「ダショー(最高の人の意味)」の称号を贈られました。


ブータンの概要を見ておきましょう。面積は38,400㎢で九州とほぼ同じ面積で、ヒマラヤ山脈の山中にある山がちな国です。
人口は697,000人で、静岡市より少し少ない程度です。多い方から数えて162位。世界の国の数はいくつだっけ?1年生の地理で約190か国と勉強しましたね。(日本が承認している国は194カ国、日本を入れて195カ国)ということは、ずいぶん小さな国ということになります。

主な産業は農業と急峻(きゅうしゅん)な地形を利用した水力発電。電力はお隣のインドに売っているとのことです。

日本と同じで立憲君主制国家。つまり、国王がいて憲法により治められた国ということですね。また、仏教(チベット仏教)を国教としています。また、親日国としても知られています。
2011年11月、ワンチュク国王夫妻が、ブータンから同行したお坊さんと一緒に、震災の被災地で鎮魂のお祈りを捧げました。(写真)

また、日本の国会にまねかれて演説し、「日本国民は、最悪の状況下でさえも静かな尊厳、自信、規律、心の強さをもって対処した。このような不幸からより強く大きく立ち上がることができる国が1つあるとすれば、それは日本と日本国民だと確信している」と被災地を勇気づけるメッセージを残してくれました。

ブータンは、今世界中が注目している国です。こんなに小さな国のどこに注目すべき点があるのでしょう?
それは「世界一幸せな国」と言われているからです。何を根拠に?と思われるかもしれませんが、2005年に実施されたブータン政府による国勢調査では、国民の45.1%が「とても幸福」、51.6%が「幸福」と答えているのです。実に国民の約97「%が「幸福」であるという、まさに「世界一幸せな国」と言えるわけですね。

この国勢調査は、総人口のうち8000人を抽出し、ひとりあたり5時間をかけて面談し、72項目にこたえる調査とのことですから十分に信頼できる統計ですね。

ブータンはかねてから、国民全体の幸福度を示す「国民総幸福量(GNH)」という考えを主張し、それを数値化してきました。

一方、経済的な豊かさをはかる統計上の数値として「国内総生産(GDP)というのがあります。ニュースなどで聞いたことがあるかもしれません。
国内総生産(GDP)とは、日本の国内で、1年間に新しく生みだされた生産物やサービスの金額の総和のことです。乱暴な言い方かもしれませんが、その国の国民が1年間に稼いだお金の総額、ってとこですか。その国の「経済的」な豊かさを表す数値と言ってもいいでしょう。日本はアメリカ、中国に次いで世界第3位です。

日本は経済大国。確かに経済的には豊かになったのかもしれません。でも、もし国民に「あなたは今幸せですか?」という問いをしたら、はたして何%の人が「幸福」と答えるでしょうか?
日本の自殺者数は3万人を超え、10万人当たりの自殺者数は世界で5番目に多いのだそうです。仕事上のストレスで悩んでいるお父さん、お母さんも多いことでしょう。また、いじめも深刻な社会問題になっていますね。

一方、ブータンの国内総生産(GDP) は、世界の中で150位くらい。経済的には決して豊かな国ではありません。でも、国民の97%が「幸福」と答えているのですから、これは驚きです。

ブータンという国は、面積も人口も経済も小さな国ですが、今、世界から注目されている理由がわかる気がします。

始皇帝の「皇帝」は始皇帝のつくったコトバです

紀元前221年。秦の始皇帝は中国を統一しました。
始皇帝の業績については、教科書にも記述がありますね。有名なところでは万里の長城を造らせたってことですね。

教科書にも写真があり、中国の観光では必ずと言っていいほど訪れる万里の長城は、明の時代に整備されたもので、始皇帝のつくらせたものは高さ2mほどの貧弱なものでした。
中国を統一した秦にとって、最大の脅威が匈奴と呼ばれる北方の騎馬民族。
馬にまたがって戦いを仕掛けてきますので、その機動力たるや秦は全く歯が立ちません。縦横無尽(じゅうおうむじん)に駆け回りますので、たまったものではありません。
「馬にまたがって」って当たり前じゃん!と言うかもしれませんが、当時の中国産の馬はとても貧弱で、馬にまたがるなんてとんでもない!馬がつぶれちゃいます。
では、どうしたか…3~4頭の馬を横に並べ、2輪の戦車を引かせ、人はその戦車に乗って戦争をす るわけです。グラウンドのように整地されたところで戦争をするのならいざ知らず、坂あり、窪地やら溝やらそこらじゅうに有るわけですから、一旦車輪をとら れたら最後です。今で言うサラブレッドなみの屈強な馬に乗った騎馬兵たちにあっという間にやられてしまいます。そもそも馬の体格が大人と子供。全く戦争に なりません。

そこで、始皇帝は「長城」の建造を命じます。要は馬を防ぐことができればいいのですから、当時の長城は馬が飛び越せないくらいの高さで十分であったというわけです。

始皇帝という名前ですが、じつは「皇帝」という言葉は始皇帝が 作ったものです。自分を最初の「皇帝」として、「2世皇帝」、「3世皇帝」…と永遠に受け継いでいきなさい、というわけです。実際には2世皇帝で滅んじゃいます。

当 時、国の最高権力者は「王」と呼ばれました。「帝」という言葉は、もともとは天をまとめる神の呼び名でした。これを始皇帝は地上の権力者の呼び名として使 うようになりました。「皇」という字は「光り輝く」というような意味ですから、「皇帝」とは、「天空の神のような光輝く存在」ということになるわけす。

秦が中国を統一する前には、各地に国があって、それぞれに「王」がいたわけです。始皇帝は、「オレはお前たち王より、ずっとエライ存在=皇帝なんだ!」ということを示したかったのかもしれませんね。

始皇帝は度量衡の統一を行いました。度量衡って?つまり、各地でまちまちだったはかり、ものさし、升の規格をそろえました。さらに、貨幣も統一。これにより全国規模での商売ができるようになりました。

そして、始皇帝は土木工事が大好きでした。
万里の長城をはじめ、自分が全国を視察旅行に行くための自分しか通らない専用の石を敷き詰めた道路を造らせたり、「阿房宮」などという巨大宮殿を造らせたりと、巨大土木工事を実施していきました。当然、その負担は人々へ。


余 談ですが、始皇帝は「不老不死」にのめり込んでいたようで、近くに「仙人」と呼ばれる不老不死を説く怪しげな人々をはべらせ、不老不死の薬を探させたよう です。そもそも不老不死の薬なんて有るはずもない。ってなわけで、「薬をさがしてこーい」と命令された人たちも、「ありませんでした」なんて言えば、首を はねられてしまう。ということで、相当いい加減なものを持って行って始皇帝に飲ませたらしいです。一説には「水銀」を飲んでいたという話もあります。水銀 は毒ですから、これで死んだのかもしれません。

始皇帝の死後、陳勝・呉広の乱がおこり、秦はわずか15年で滅んでしまいます。農民の親分格だった陳勝は、始皇帝が専用の道路を豪華な車に乗って通るのを 見て「王侯将相いずくんぞ種あらんや」(王や将軍となるのに、決まった家柄(種)なんかありはしないのだ!)と言ったとのことです。

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